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『気象予報士の責任』への御返事。 [庶事所感]

今回は「感情論」に甘えすぎだと思ふ。


天氣は判らなくて元々だから、外れたからといって慷慨しても仕方ないぢゃないか。そして、それを裁判で争ふ事ぢゃないのは、明らか。

それを一々免停にしてゐたら、誰も氣象豫報士になんぞ成らないだらう。外れることが確率的に判ってゐて、外れたら免停になる免許など、誰がわざわざ取るといふのか。もしゐるとしたらその人は、勉強は出来るか知らんが相當な莫迦だと思ふ。

天氣豫報が外れれば人が死ぬこともある。「馬券師の当たりハズレ」と違ふことは、當の豫報士が一番解ってゐるんぢゃないだらうか。或は、自動車免許とは訳が違ふから、自動車免許よりも遙かに難しいのである。豫報を外した豫報士は慚愧に堪へないんぢゃないだらうか。普通の人ならさう感じるだらうし、気象豫報士も普通の人だ。

抑、個人での氣象豫報が實質不可能と知ってゐて、Media に出てゐる豫報士に謝らせやう、といふのは人が悪い、と思ふ。と云ふか、何でもかんでも、謝れば良い、といふものでもないだらうに。抑、謝罪は強要するものぢゃない、筈。


政治家は戦略的に有効であれば、悪くないと思ってゐても謝るのである。


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共通テーマ:日記・雑感

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コメント 5

参明学士/PlaAri

TBありがとうございました。
この件の論旨自体は自分でも言いましたが感情で成り立っています。
人として国家資格者として、公共放送に携わる予報士の振る舞いに重点を置き注視したものだとご理解下されば幸いです。
by 参明学士/PlaAri (2005-07-21 11:36) 

黄泉若宮

この件の論旨は、「感情論」に甘えすぎだ、と謂ふ批判で成り立ってゐます。
影響力のある者として、公の場での言論人の振舞ひに重点を置き注視したものである、と御理解下されば幸ひです。

と云ふか、氣象豫報士に豫報以上の Service を期待するのは何うか、と。
豫報が外れたとき、Professional としての豫報士に期待すべきは「謝罪」ではなく、豫報が外れた原因の追求であり、それを今後に生かすことであります。枝葉を恰も大事であるかのやうに論ふのは煽動家のすることではないのですか。
by 黄泉若宮 (2005-07-21 23:17) 

参明学士/PlaAri

>豫報が外れたとき、Professional としての豫報士に期待すべきは「謝罪」ではなく、豫報が外れた原因の追求であり、それを今後に生かすことであります。枝葉を恰も大事であるかのやうに論ふのは煽動家のすることではないのですか。

予報を受け取るのは機械ではなく感情ある人間です。ハズしたこと自体に対する言葉をまずは待っています。記事にも書きましたが「なぜ一言がないのか」を疑問に思います。原因追求はそれとセットになってこそ説得力を持つものであると私は考えます(ハズした原因について究明されているケースすらほとんど見たことはありませんけれど)。当該記事にコメントを寄せてくださった方の中にもありましたが、ハズしたことに対する振る舞いが視聴者にとって適切でなければ「気象予報士」自体の信頼低下を招くわけです。お詫びをして視聴者に害になることはない。
お詫びの一言→原因の追究・表明→気象情報(気象予報士)の信頼維持 というスケールは情報を受け取る側の立場として格別に誤っているとは思いません。予報士がProfessionalであればあるほど、自己陶冶とそれに基づく社会対応を通して信用ある気象予報をすることを目指すべきだと考えます。以上のことが「扇動」とお見えになるのでしたら、特に私からの言葉はありません。

>枝葉を恰も大事であるかのやうに論ふのは煽動家のすることではないのですか。

およそ社会に生きる者は人間同士の連環を避けて通ることはできません。ニュースキャスターでも誤読や誤報に関しては視聴者に簡潔にお詫びをして訂正します。まして予報そのものを生業とする者はその姿勢が問われます。「枝葉」を考える前に「幹」を捉えなくてはいけません。その幹は「人間性」でありましょう。人間性無き者の言葉は「それ自体が正しい・誤り」であるか判断される前に民衆から横を向かれてしまうことでしょう。人間にとって「振る舞い」が枝葉だとしたら、幹は何に当たるのでしょうか。

これらは私と若宮さんの価値判断基準の違いを表しているものだと思われます。あくまで私は「人間」を軸にモノ・コトを捉えます。それは繰り返すようですが、社会での出来事は「人間」と遊離して存在しえないという考えから来ているのです。
by 参明学士/PlaAri (2005-07-22 01:30) 

黄泉若宮

> 予報を受け取るのは機械ではなく感情ある人間です。

感情の無駄遣ひであるやうに思はれます。豫報はそれ自體「機械」的な情報なのだから、「機械」的に受取ればよいものです。人間には感情があるからと云って、或る「機械」的な情報を受取るときに感情を以て受取る必要はありません。寧ろ、感情に拠って情報が歪められることを避けるやう努めるべきです。

> ハズしたこと自体に対する言葉をまずは待っています。記事にも書きましたが「なぜ一言がないのか」を疑問に思います。

假に謝辞が述べられたとして、本當に謝意がある訳ではないのと違ひますか。普通の人は不特定多數に本氣で謝ることが出来ません。ならば、その「謝罪」は Performance であります。「謝罪」に類する Performance を見て、それで「満足する」のは「低レベル」な趣味です。明士殿は、かう云った「低レベル」な趣味を善しとしてゐないではありませんか。吾はそれを助長しさうな「感情論」に駄目出しただけです。

> ハズしたことに対する振る舞いが視聴者にとって適切でなければ「気象予報士」自体の信頼低下を招くわけです。

「振る舞い」が「適切」か何うかを視聴者に「判断」できるわけがありません。その「判断」は個々人の主観に基づくものだからです。その上で成立ってゐる「信頼低下」は個人的な餘りに個人的な「感覚」に過ぎません。

> お詫びをして視聴者に害になることはない。

お詫び自體が視聴者に益することもない。(個人的には時間の無駄であると思ひます。が、この括弧内こそが彼我の價値觀の違ひでありませう。)

> 予報士がProfessionalであればあるほど、自己陶冶とそれに基づく社会対応を通して信用ある気象予報をすることを目指すべきだと考えます。

氣象豫報士が本當に信頼を得るには、豫報を外さない、と云ふ以外に方法が無いわけです。かかる「理想的」な氣象豫報士がゐるなら、豫報は信用され、多少の振舞ひは見過されるでせう。豫報士にとっての「振る舞い」が枝葉である所以です。かうした「理想的」な豫報士が確實に實現し得ないことなのは判りきってゐることであり、仕方のないことです。だからこそ、殆どの人が天氣豫報を本氣で信頼してはゐないのです。

> ニュースキャスターでも誤読や誤報に関しては視聴者に簡潔にお詫びをして訂正します。

謝ったからと云って事實が消えるわけではありません。お詫びが大事なのではなく訂正の方が大事なのです。しつこいやうですが、訂正が「幹」でお詫びが「枝葉」です。
それに、天氣豫報で「昨日の天氣」を訂正されても迷惑です。外れた理由を伝へるなら別の企画を立てて遣るのがよい、と思ひます。

> 予報そのものを生業とする者はその姿勢が問われます。

此処で扱ふべき「姿勢」は、豫報の内容に対する「姿勢」であり、礼儀的な姿勢ではありません。

別けて考へるべきものは、別けて考へた方が混乱しなくて済みます。

> これらは私と若宮さんの価値判断基準の違い云々。

と書かれると、吾が人間を軸に考へてゐないやうに思はれるんぢゃ無いでせうか。まぁ、いゝですが。
by 黄泉若宮 (2005-07-27 01:07) 

参明学士/PlaAri

返信コメントの拝見が遅れました。申し訳ありません。

>感情の無駄遣ひであるやうに思はれます。豫報はそれ自體「機械」的な情報なのだから、「機械」的に受取ればよいものです。

それは予報を単に「それ自体」としか捉えておられないので機械的受け止めになるのだと思います。加えて「予報それ自体機械的」という意味がよくわからないですね。予報士という人間の意思が介在することによって同一データを提供されても予報に差異が発生するわけですから、予報そのものが機械的という意味はイマイチ伝わってきません。まして予報を軸に行動を起こした視聴者がいる。そこに視点があたるのです。お詫びするのは狭義には「予報をハズしたこと自体」、広義には「予報によって行動を変更させてしまったこと」が対象になります。不特定多数の動きに影響のある発言を行い、それが結果として適切でなかった場合に簡単にでも謝する姿勢というのものがマイナスとして働くとは思えません。

>假に謝辞が述べられたとして、本當に謝意がある訳ではないのと違ひますか。

本当に誠意があるかどうかが確認できる段階でないと「謝」の意が発生しないとすれば、およそ世の中のお詫びは全て「performance」ということになるでしょう。何も「心から悔い改めよ」などとは言っていないのです。単純に視聴者に対する誤りを謝するという「行為自体」の欠落を残念に思うのです。

>「振る舞い」が「適切」か何うかを視聴者に「判断」できるわけがありません。

「昨日は予想とは違う天気になり申し訳ありませんでした。」と仮に言ったとします。この間恐らく5秒も必要ありません。言って害にならない=言って益にならない わけではありません。お詫びを聞いて害に思う人がいないなら、5秒ほどを使って前置きすることに「不適切」は該当しないと思われます。であるならば視聴者感情を踏まえて「より適切」と思われる手段を講じることに価値を見出すことが出来ると思います。

>かかる「理想的」な氣象豫報士がゐるなら、豫報は信用され、多少の振舞ひは見過されるでせう。

どのくらいの多少かはわかりませんが、見過ごされないと思います。それどころか一般に能力が高くて、振る舞いに落ち度のある人間は嫌われる傾向にありませんか?東大出身エリート官僚なんかがその例ですね。そういうスタンスは見過ごされないので「振る舞い」が幹になるのです。振る舞いは換言すれば「人間」のことです。当然、そちらが幹にならざるを得ません。
「振る舞い」そのものは気象予報の枠を大きく越えたところに存在しています。気象予報士の能力を「予報能力」だけで固定化するのは人間を機械化することに手を貸しているのと同義です。不特定多数を相手にし、振る舞いが必要不可欠とされる公共放送の「場」にいながらにして、幹を軽視することは本人の信用失墜、および放送局の信用失墜へとつながっていくことでしょう。
あえて言うならば予報士一人自らが予報がハズれた原因を追究し改善を図っていくこと、そこには別に謝は必要ありませんね。若宮さんの仰るようにただただ予報精度を高めることに真剣になればよいわけです。ただし、何度も言うように社会と絡む立場での振る舞いがおざなりになれば予報士としての素養そのものが容認されなくなってくるのです。容認されなくなれば予報どころではありません。降板です。ですからやはり「幹」は人間そのものと言うことになりましょう。

>外れた理由を伝へるなら別の企画を立てて遣るのがよい、と思ひます。

同感です。外れた理由などは聞いてもしょうがありませんよね。それこそ、予報士自体が胸のうちに収めて次回以降の予報に役立てて欲しいものです。

>謝ったからと云って事實が消えるわけではありません。お詫びが大事なのではなく訂正の方が大事なのです。しつこいやうですが、訂正が「幹」でお詫びが「枝葉」です。

お詫びがなければ感情動物である人間はその人自体を相手にしません。談合の不祥事も、JR脱線事故も、会社の粉飾決算も、リコール隠しも、まず担当者が行ったことは「お詫び」という行動です。それもなく原因究明に入ろうものなら国民から総スカンを食うのは目に見えています。何度も言うようですが、その意味で「幹は人間、その他は枝葉」にならざるをえないのです。人間が社会の中で生きて様々に連関しあっている構造の中においては、「振る舞い」を軽視することは許されないことなのです。つまるところ「詫びる」ということは何も気象予報に限った問題ではないということに行き着きます。人の振る舞いは人間の関係するところ全てに影響を及ぼしていると言って間違いはないかと思われます。

>此処で扱ふべき「姿勢」は、豫報の内容に対する「姿勢」であり、礼儀的な姿勢ではありません。

一見そのようにも見えますが、社会においてはそれらは密接に連関していて切り離せないものであるということを認識しなくてはいけないでしょう。
学校で「気象学」の勉強でもしている時なら、『豫報の内容に対する「姿勢」』で構わないと思いますけれど。ここにこそ礼儀的な姿勢は関係がありません。別けて考えた方がいいというより、別けて考えるべきものであるということですね。

>吾が人間を軸に考へてゐないやうに思はれるんぢゃ無いでせうか。

あ、すみません、そう感じられておられたらお詫びします。本意ではありません。あくまでこのコンテキストの中だけでの話です。
by 参明学士/PlaAri (2005-07-30 01:51) 

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